モーツァルト
「ああ、こんなことなら私は彼を毒殺すれば良かった。しかし私は彼を絶対に殺してはいない。神に誓って!」

  のっけから物騒なセリフで失礼いたしました。これはモーツァルトの「毒殺説」で一番嫌疑をかけられた作曲家サリエリが、昔の弟子モシュレスに残した言葉です。

そもそもことの発端は、モーツァルトがザルツブルグの大司教ヒエローニュムス・コロレドと、大喧嘩をして決別したことと、父レオポルドから自立したかった、というところから始まります。当時ザルツブルグは独立した大司教国でした。ですからコロレドはその国の元首という地位にいたため、モーツァルトにとっては絶対的な存在でした。ところがモーツァルトは幼少の頃から演奏旅行のためザルツブルグ不在が多かったため、若くしてザルツブルグの宮廷楽師であったモーツァルトとコロレド大司教と反目するきっかけを作ったのでした。


ザルツブルグにあるモーツァルトのお気に入りのカフェ・トマセリ(左)と
モーツァルトの生家があるザルツブルグ、ゲトライデガッ(右)

この時モーツァルト25歳。血気盛んで、自分の才能を疑わず、「前進あるのみ」と意気込んでウィーンへやって来てはみたものの、そう簡単にことは運びませんでした。

当時の皇帝は、マリア・テレジアの長男、あのマリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世でした。彼は、芸術、特に音楽に造詣が深い人物でしたがイタリア人のサリエリ先生がお気に入り。でも、なんでイタリア人が宮廷楽長になれたの・・・?と思われるかも知れませんね?

当時のハプスブルグ帝国というのは数多くのヨーロッパ諸国を統治していたため、首都ウィーンは多民族でひしめく実にインターナショナルな都市でした。さらにその時代は、イタリア語が文化的言語とされていたため、オペラはほとんどがイタリアオペラでした。そんな訳ですかサリエリが要職につけたのも不思議ではありません。それにザルツブルグを飛び出して来た宮廷音楽家、モーツァルトをヨーゼフ2世も大司教の手前、優遇することは出来なかったのでしょう。

しかしサリエリはモーツァルトの出現により、彼のたぐい稀な才能を羨むと同時に、自分の座をモーツァルトに奪われるのではないかとヒヤヒヤの毎日でした。モーツァルトが28歳の時に、「ダビンチコード」でも有名になったフリーメイスンのウィーン支部に入会しました。

この結社、当時はヨーゼフ2世も会員だったくらいでしたので、別に謎めいたものではありませんでした。 このなかでは国籍も身分も職業も関係なく、「自由、平等、博愛」の精神を尊ぶもので、モーツァルトもこの精神に共鳴したのです。ここでモーツァルトは幼い頃奴隷として連れて来られ、後にリヒテンシュタイン公爵の筆頭教育係となったナイジェリア人のアンドレ・ソリモンと知り合い、親交を深めたと言われています。ヨーロッパではルネッサンスの時代から、宮廷ではエキゾチックな風貌の黒人が、もてはやされていました。


市民の憩いの場所
フォルクスガーデンのモーツァルト像


モーツァルトグッズのお店

そして本日の「ワイシャツを着たムーア人」(ムーア人とは黒人全体をさしていたようです)というスィーツも、できたほどです。生クリームの部分をワイシャツに見立てたウィーンの暖かいデザートです。チョコレートスフレが意外に軽く、ペロリと頂けてけてしまいます。    えっ?おかわりですか?   ちょっとお待ち下さい。これは蒸し焼きにするので、もう少しお待ち下さい。

その間に話を進めましょう。

フリーメースンに入会した後、モーツァルトは続々と傑作を生み出しました。イタリア出身の宮廷詩人ダ・ポンテとコンビを組み、「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」とヒットを飛ばしましたが、ここでモーツァルトは、はたと気づきました。

「自分たちの母国語(ドイツ語)のオペラを作ろう!」

オペラと言えばイタリアオペラという概念があった時代でしので、皇帝もなかなか首を立てにふりませんでした。が、フリーメーソンの会員でもあり脚本家であるシカネーダの助力もあり、モーツァルトは「魔笛」の作曲に着手することができました。しかしこの頃から徐々にモーツァルトの体調がおもわしくない上に借金苦も重なり、彼は高額の報酬の前金を持って現れた匿名の依頼人からの「レクイエム」の作曲をも引き受けたのでした。重病の時にレクイエムの作曲なんて、あまりにも残酷。おまけにモーツァルトが妻のコンスタンツェに「僕はどうも毒をもられたようだ」と言ったとかで、サリエリは増々疑われるばかりでした。


モーツァルトの結婚式も葬式もここで執り行われた(左)と
モーツァルトの晩年の家(ガラス張りの建物) 跡地はデパートに(右)

かなり後になってわかったことですが、このレクイエムの依頼主はシュトーパハ伯爵ということがわかりました。では、何故、何のために、と思われるかもしれませんね。この伯爵、ちょっと変わった趣味の持ち主で、作曲家に曲を依頼しては、あたかも自分が作曲をしたかのように吹聴する人物でした。モーツァルトに依頼した時も、自分の亡き妻のためにレクイエムを書いて欲しいために、匿名の使者を送った訳です。まあ、人騒がせなことをする人ですね。それにしても、お気の毒なサリエリ先生。

結局モーツァルトはこのレクイエムを完成させることなく亡くなってしまいました。 ここで慌てたのはコンスタンツェです。 未完では報酬を全額もらえませんものね。 そこでコンスタンツェはモーツァルトの弟子のジュスマイアーを焚き付けて、何とか書き上げさせた訳です。ですから今となってはどこまでモーツァルトが書いたのか・・・ということが、「毒殺説」以上に謎に包まれています。

さて、デザートもできあがったようです。型からお皿に返してたっぷりとチョコレートソースをかけます。 そうそう、モーツァルトは大のチョコレートファンで、彼の母、アンナ・マリアもチョコレーとケーキを良く作ったようです。

最後に泡立てた生クリームを添えて、できあがりです。
熱いうちに、どうぞ召し上がれ!

 

撮影・中島劭一郎
 ワイシャツを着たムーア人  (モア イム ヘムト )
 
材料直径6cm、高さ5cmのプリン型7ヶ〜8ヶ分

スフレ用

バター.....50g
卵.....3個
粉糖 (ふるう) .....25g
グラニュー糖.....25g
粉末アーモンド(できれば皮付きの物) .....100g
チョコレート.....50g(溶かして冷ましておく)

ソース用

牛乳.....250cc
グラニュー糖.....40g
チョコレート(刻む).....80g
コーンスターチ.....10g

生クリーム

生クリ−ム.....適宜
グラニュー糖.....生クリームの10%

 
 
作り方
1: 型にバターをぬって粉糖をふっておく。
2: 室温にもどして柔らかくなったバターと粉砂糖をフンワリするまで撹拌し、ここへ卵黄を1ヶずつ加え混ぜ、さらに撹拌する。
3: 2)にアーモンドとチョコレートを加え混ぜる。
4: 卵白とグラニュー糖とでメレンゲを作り(固すぎないように)3)に注意深く加え混ぜる。
これを型の八分目に流し入れ、湯をはった天板に並べ、180℃のオーブンで35分ほど蒸し焼きにする。
5: この間にソースを作る。
a)牛乳の2/3量とグラニュー糖を煮立て、ここへチョコレーを加え溶かす。
b)残りの牛乳にコーンスターチを加え混ぜ、これをa)に加え、火にかけながらとろみをつける。
6: 生クリームを泡立てて、口金をつけた絞り出し袋にいれておく。
7: 4)を型から皿に返して、5)のソースをかけ、生クリームを絞り出す。
 
高山厚子のプロフィール
東京都出身

フェリス女学院大学音学科ピアノ科卒業後、ウイーン・コンセルヴァルトワールに留学。シュタートラー教授にピアノを師事。
ウイーンガストロノーミッシェ・インスティテュートにおいて、ヴォルフガング・カルプヘン氏にウイーン菓子を師事する。
スイス・バーゼルにおいてカール・シルマン氏にマジパン細工を師事する。
その他、デュッセルドルフ、コンディトライ カフェ・マウス
ハーゲン、カンデルン、カフェ・ラコステにおいて研修を積む。
日墺文化協会会員 
日墺文化協会主催「ウイーンのお菓子教室」講師
高山厚子著書「ウイーン菓子12ヵ月」文芸社
 
日墺文化協会(http://austria.gooside.com/)
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