サリエリ
ベートーヴェン 後半
コールマルクトから王宮に通じる道   
裏通にあるカエルの看板が目印のワイン屋さん
裏通にあるカエルの
看板が目印のワイン屋さん

シューベルトが亡くなった時、彼の師であったサリエリは、高齢ということもありましたが 精神をかなり病んでいました。
そう、原因は、やはりモーツァルトの件なのです。
病床で、弟子のモシュレスに「私はモーツァルトを殺してはいない」と告白したところ、 かえってこれが仇となってしまいました。(モーツァルト後編をご覧下さい。)
まあ火の無いところに煙は立たないとでも言いましょうか、彼が身の潔白を主張すればするほど噂はおもしろおかしく広まるばかりでした。
何ともお気の毒としか言いようがありません。 
そんな訳で、今回はサリエリ先生にスポットをあててみましたのでちょっとおつきあい下さい。

まずここで、サリエリが生まれた1750年に、時計の針を戻しましょう。
アントーニ・サリエリ。イタリアのレニャーゴという町に、裕福で、音楽教育に熱心な商人の家庭の八男坊として生まれました。
幼い頃からバイオリン、チェンバロ、声楽を習い、才能があったサリエリは、熱心に音楽の勉強に励んでいました。
ところが彼が14歳の時に父親は事業に失敗。翌年母とも死別してしまいます。

しかし幸運にも、当時ウィーンの宮廷作曲家であったフローリアン・レオポルド・ガスマンの目にとまります。
彼はこの利発で品行方正な少年をとても気に入り、弟子兼アシスタントとしてウィーンへ連れて行きました。
この時サリエリ16歳、そしてモーツァルトは10歳。 
この時これから辿る数奇な運命が二人を待ち受けていようとは想像もしていなかったでしょう。
ウィーンへ来てからのサリエリは、もともとの熱心さも手伝ってか才能を余す所なく発揮していきます。 そして皇帝ヨーゼフ2世(マリア・テレジアの長男)の寵愛を受け、ガスマンの死後は、弱冠24歳の若さでウィーンの宮廷楽長の座を射止めることができました。
当時のオーストリアは、イタリア文化の全盛期。イタリア人のサリエリがその地位に就けたのも不思議ではありませんが、 破格の大出世であったことは確かです。

グラーベンにある高級スーパーマーケット
グラーベンにある高級スーパーマーケット

確かにこの皇帝の推薦なしではこの地位を獲得することはできませんでした。
しかしヨーゼフ2世・・・と言うよりハプスブルグ家の面々は、大の音楽愛好家が多く、自らも作曲をしていたヨーゼフ2世は特に音楽に精通していました。
これがサリエリにとって幸か不幸か、皇帝の好みにあった様に作曲をすることもしばしばでしたので、
モーツァルトからしてみると 「uninteressant =ウンインテレサント=  面白くない」
という曲が多かったようです。
かく言う私もサリエリのフルート協奏曲を聴いてみましたが、やはり軍配はモーツァルトに上げてしまいました。
こう書くと、サリエリは政治欲が強く、なかなかしたたかで卒のない人物と思われるかも知れませんね。
ところが彼は才能があっても貧しい生徒達には無償で教受し、さらに面倒を見てやると言うなかなかの人格者でした。
その良い例がシューベルトです。
サリエリは 時々授業の合間をぬっては生徒達を町に引き連れ、グラーベンにある行きつけの店でアイスクリームをご馳走してやったりなどしていたそうです。

甘い物好きなサリエリのお気に入りはレモン風味のアイスクリーム。 
甘酸っぱいレモンの香りに故郷イタリアに想いを馳せていたのではないでしょうか?
そんなレモン好きのサリエリのために、今回私は彼好みの「ヴィーナスの乳首」を考案してみました。
バニラ風味のバヴァロワの中にレモンクリ−ムを絞り込んだデザート風のケーキです。
残念ながら今回はレシピは載せることが出来ませんので、お味は皆さまのご想像にお任せ致します。(スマートガーデンのブログをご覧下さい)

余談ですが、「ヴィーナスの乳首」のレシピは色々あります。 
映画「アマデウス」に出てきたようにマロングラッセをホワイトチョコレートでコーティングした物 や、ガナッシュ(チョコレーとと生クリームを合わせた物)を絞り出し、チョコレートでコーティングしたもの・・・などなど。
ただホワイトチョコレートの製造法はかなり後になってからスイスで発明されたので、当時の「ヴィーナスの乳首」がどんな物だったのか興味津々です。
いずれにしろチョコレートは当時は高級品でしたので、庶民には高嶺の花。
モーツァルトの妻コンスタンツェが舌なめずりをしたのも事実かもしれませんね。

さて、話を元に戻しましょう。数多くの優秀な生徒を輩出したサリエリが、なぜモーツァルトの暗殺者に仕立て上げられたのでしょうか?

グラーベンでウィンドーショッピングを楽しむ人
グラーベンでウィンドーショッピングを楽しむ人

確かにサリエリは自由奔放に生き、類い稀な才能溢れるモーツァルトに羨望の眼差しを向けていたでしょうが、地位を棒に振ってまで殺人を犯すという推理はかなり無理があるように思えます。
何故ならモーツァルトがオペラ「フィガロの結婚」を発表した頃にはサリエリはすでにオペラ作曲家としての地位を不動のものとしていましたので、彼を殺害する必要がなかったのです。
次にモーツァルトの息子、フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルトは彼の弟子でもありました。
いくらコンスタンツェが脳天気でも、自分の主人を殺した人間に息子の教育を任せるでしょうか?
これは私達の日常にもよくあることですが、揺るぎない地位を嫉妬する者達がでっちあげたのかもしれません。

ただサリエリには決定的なハンディがありました。 
オーストリア人の妻を持ち、半世紀以上もウィーンに住んでいたにもかかわらずドイツ語が不得手だったのです。
これも人々の誤解を招く要因のひとつだったのでしょう。

こうして汚名をきせられたまま、サリエリは1825年に75歳の生涯を閉じます。
彼の死後「暗殺疑惑」は増々ヒートアップするばかり。
おまけに1830年には映画やお芝居でお馴染みの「アマデウス」の元となる「モーツァルトとサリエリ」が ロシアの詩人プーシキンによって書かれ、これが大ヒット。 
こうしてサリエリの汚名は200年以上立った今でも延々と語り継がれている訳です。

とは言え、ウィーンが「音楽の都」の名を欲しいままにしたその陰には彼の功績に担うところが大きかった、と言うことをあなたの胸の中にそっとしまっておいて下さい。
それでは今回のお話はこの辺で。

ビーナスの乳首
撮影・中島劭一郎
高山厚子のプロフィール
高山厚子さんの写真東京都出身

フェリス女学院大学音学科ピアノ科卒業後、ウイーン・コンセルヴァルトワールに留学。シュタートラー教授にピアノを師事。
ウイーンガストロノーミッシェ・インスティテュートにおいて、ヴォルフガング・カルプヘン氏にウイーン菓子を師事する。
スイス・バーゼルにおいてカール・シルマン氏にマジパン細工を師事する。
その他、デュッセルドルフ、コンディトライ カフェ・マウス
ハーゲン、カンデルン、カフェ・ラコステにおいて研修を積む。
 日墺文化協会会員 
 日墺文化協会主催「ウイーンのお菓子教室」講師
 高山厚子著書「ウイーン菓子12ヵ月」文芸社
 
日墺文化協会(http://austria.gooside.com/)

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